神話を語る数学(アッサジと巡るjourney with cyclops)④

神話を語る数学(アッサジと巡るjourney with cyclops)④

単位円を可愛がるアッサジ。

‘journey with cyclops’
『世界一美しい数式「e^iπ=-1」を証明する』(2019.佐藤敏明) を読破し、数学回路を構築した脳で作曲するプロジェクト。

依然として三角比と三角関数の湿原から出られない。
そもそも2章は全て三角関数に割かれているのでそう簡単にこの湿原は抜けさせてもらえないようだ。

さあ、本日もまた苦難のアーナンダに身を扮し、オイラーの待つカピラヴァストウへと歩を進めよう。数学と戯れながら。
5,6日目はまだ三角関数の基礎の基礎の復習なので今日の学習内容そのものよりも数学が見せる創作への豊穣な灯明の絶景をここに記す。

前回話した曲の作りづらさについては徐々にその正体が見え始めた。
私が今作りづらく感じているのはキャラのない曲だ。

壮大さを共通項にもつ’communitarium’や彼岸と此岸を行き来する「童子物」などははっきりキャラが定まった曲しかない。そういう特性の曲調を綴じたお話とするのがデジタルアルバムであり、すべてのビジョンがそこから始まるからだ。
曲作りの初手ですでにその潜在感覚ありきでの音源選びやフレーズが決まる。

だが、最近の曲作りの傾向としてしばしばキャラのない曲が出てくることがある。
壮大なネットワークの縁を呼び合う思慮深い塔で繋がるオーケストラ風にもなれず、東洋の彼岸で自在に「遊びをせむやと生まれけむ」と豊穣な死のエッセンスとも戯れず、かといって中国桃源郷風のたおやかな天界にも属せない、どこにも分類できないみなしごのような曲が生まれてくる。

これが最近曲作りに難航している原因だ。
今論理的に説明できるのはこのぐらいだ。

次に、合成関数のような曲調を発見した。短い繰り返し(ベースなど)の上に大きな周期の繰り返しが乗る曲調だ。
テクノなどによくあるリフのパターンというよりポップス全般でしばしばみられるようなものだ。

これは合成関数と言えないだろうか?2つの各々で閉じていた関数同士が出会い、片方がもう片方を取り込んで新たな関数が生まれてくるというのは2つの関係ないフレーズが出会って進展していく音楽のようだ。

ただし片方の関数の値域がもう片方の定義域に含まれるとき、という条件付きなのも2つの関係ないフレーズが2度でぶつかった場合濁るという音楽理論にしばられるのを想起させる。

そして最後に。

私は今まで「数学は宇宙を理解する言語である」というフレーズに納得がいかなかった。だが、今日気づいたことがある。数学は神話である。
かつて神話を語ったのが宗教という舞台の上でなら、現代で神話を語るのは科学という輝かしいステージで影法師のようにうろつく数学という俳優なのだ。
独白の役者のように、数学は聞くもののあるなしに関係なく神を示す言葉を語る。

始めは神の言葉を伝える一介の俳優であった数学はいつしか彼自身が神の扱いをされるようになった。
さしずめ神に仕える狐がそれ自体稲荷という崇められる妖となるが如く。

宗教が語る神話はもはや歴史となったが数学が語る神話は今この科学信仰の熱狂のさ中に生きて語られるナーラティヴとして人にそこに生きるためのストーリーと各々の世界観のきっかけを提示している。

数学者は実はうろつきまわる吟遊詩人であり、片手に携えるのは数学のための耳慣れない用語をポロポロと呟く9次元リュートだったのだ。
夜をなくした現代で、生きるための物語を紡ぎ出す役割は吟遊詩人や夜の森の老賢者を思わせる語り部から数学者へと引き継がれたのだ。

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