脳の上でサピエンス史は華厳と踊る(アッサジと巡るjourney with cyclops)⑤

脳の上でサピエンス史は華厳と踊る(アッサジと巡るjourney with cyclops)⑤

単位円を可愛がるアッサジ。

華厳経が説く世界には手が届く。これが今日まで三角関数の湿原にずぶずぶと沈みながら進んでいてようやく頭を出した結論の一つだ。
ちょっと一息つかせて。

‘journey with cyclops’
『世界一美しい数式「e^iπ=-1」を証明する』(2019.佐藤敏明) を読破し、数学回路を構築した脳で作曲するプロジェクト。

本日はp.100まで進んだ。ページ数を記載しないと読み手にも「こいつは読んでるふりして適当書いてるんじゃないだろうな」と思われかねないので。

それにこの記録を’journey’と銘打つならばこのブログは紀行文だ。旅路にはもちろん道祖神がつきまとう。
しばしば招きにあいてとるもの手につかなくなってもページ数の記載はモチベーションになる。

ようやく三角関数の骨子、単位円が顔をのぞかせた。こいつは三角関数の湿原を抜けるのに丁度いい転ばぬ先の杖であり、帯にぴったりたすきに便利といったところ。

この単位円をお供に連れればそぞろ神に心を狂わされることなくこの沼地を足を取られつつも前進できる羅針盤となるのだ。
なにせこいつは羅針盤どころかsinもcosも連れてくるまさに天の鳥船宝船。
黄泉平坂さえ遠く鳥瞰する「一即多・多即一」の天網を自在に潜り抜けるもの。

単位円には三角関数の全てがある。(これは買いかぶりすぎ)

ここにきてようやくこの本が音楽に歩み寄り始めた。単位円に導かれたサイン波に静かなリノリウムの廃墟の病院を思わせるハイトーンの青く冷たく輝く人工光を聞いたのは私だけではないはず。
シンセが奏でるサイン波が冷たくよそよそしく何者も意に介さない性格を持つのはまぎれもなくこの周期関数のためなのだ。

この循環を適当に目をつぶって切り取っても決して他者を引っ掛ける角がない。
角立たざるに智に働かず。阿呆のふりして阿頼耶識に住まうすべてと縁を結んで己の世界を紡ぎ続ける禅師たれ。

如是我聞。sinが歌いかけるジャータカに聞いた。
だが、いいことばかりではない。

本日は数学を学ぶことの創作行為への弊害についてだ。まさかそんなものがあるとは。
こんなことが起きようとは思ってもみなかった。

文章が読みづらくなっている。

特に普通の文章より込み入った学術系のものが。

今ユヴァル・ノア・ハラリの「サピエンス全史」の2週目を読んでいるが、どうも1周目より頭に入ってこない感じがする。
感じがすると言ったところで感覚をデータ化して可視化して比較することはできない以上これは思い違いの可能性がある。
だが創作行為においても感覚の占めるパイは大きいし、他者の感覚とは比べられないのでこの命題を真として話を進める。のちに棄却する可能性あり。

上記の「サピエンス全史」は決して今まで読んできた仏教系、哲学系の文章に比べて一般向けであり難しくないはずだ。
かつ私は1周この本を読み切っている。

どう考えても2週目は1周目より読みやすくなるに決まっているのに文字が脳の上を滑っていくような、全く腑に落ちない状態で読み進めている。文章が脳の上で踊るだけで一向に咀嚼できない。

これはもしや数学回路は文章回路を上書きするのか?
数学を学ぶことは文章の創作に携わる人間にとって益のないどころかマイナスなのか?

結論から言う。数学回路は文章回路を破壊していない。
ただ世界の理解の仕方が違うのだ。

数学の証明等が説明された文章を読んでいると、理解する際に別の文章で「理解」というゾーンに落とし込むのではなくビジョンで落とし込むことがある(あるよね?)

もっと言葉にして言うと、人に説明はできないが理解している状態になることがある。その理解の仕方はロゴス的に理路整然と並べて理解のゾーンに落ちるのではなくレンマ的にパッと一瞬で「掴む」感覚で理解することがあるはず。(これで通じてる?)

この掴む感覚がおそらく数学独特の理解の仕方なのだ。作曲においてちょうどとあるフレーズを思いついてそれがどこから来たか説明できないように、現在の世界で高く評価されがちな理性の障子を突然突き破ってやって来る雑然とした化し物に形を降ろした「理解」が。

これこそが数学回路が構築されつつある証拠なのだ。
そしてこの数学回路と文章回路は今のところ私の中で同期していない。

先日述べた造語の作りにくさもおそらくこれが原因だ。
SFというジャンルが成立している以上、この2つの回路が人間の中で同期できないことはないはずだ。(私の脳ではできないかもしれないが)

おそらく今がこの2つの回路のバランスをとる正念場だ。
今はなかなか語彙が出てきづらくこの文章も意味を成しているのかもう不明だがこういうときはこのままどちらも続けるという力技がいる。

この2つの回路がもしも同期したら、というとほうもない展望を予期させる人間の想像力が見せる五里霧中のビジョンの、好奇心と名付けるところのものと同行二人に。

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