「古調天涯/松岡大海&鏡音リン」余話

「古調天涯/松岡大海&鏡音リン」余話

10/3に出した「古調天涯」の余話を。
歌詞の一部に「涼しの雨すぎて」とあるので夏の内にと思っていたがまだ夏の名残が漂っているので滑り込みといったところ。


仮想ネットワークアルバム「複素録」に入る曲の特徴通り和・雅楽器を中心に中国伝統楽器古琴が琴を支え、ピッコロが高麗笛に隠れ、笛子のユニゾンにクラリネットが鳴っている。
いつも通り私の曲では民族楽器が主、洋楽器が従だ。


サビで中低音を形作っているのは三味線の音だがこれは私が弾いた太棹のフレーズと打ち込みを混ぜている。
三味線はどうしても生音だけだとリアリティはあるが不安定に聞こえがちであり、打ち込みだけだとあからさまに打ち込みでございという音になりがちなので私はいつも両者を混ぜている。
こうすることで生音をダブリングさせるよりも位相がぶつかり合わずクリアなまま他の音と混ざる。



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動画内で使った古建築の映像は横浜にある日本庭園で撮った写真をClip Studioでイラスト風に加工した後、PixVerseに読ませてムービーにしたもの。
動画にする際に書き込んだプロンプトの試行錯誤で突如画面内に全身赤いタイツの人物が登場するなどかなりホラーな動画も生成されたので機会があればどこかにアップするかもしれない。

今回特筆すべきは歌詞だ。
アルバム「複素録」の特徴通り古い日本、彼岸を思わせるような歌詞だが今回は前向きさがあるかもしれない。
特に民謡や講談から得たフレーズも入れた。
「寛永宮本武蔵伝」で「たそやかぐらの夕間暮れ」という言い回しを聞き、耳で覚えていたそのフレーズをメロディに合うように少し変えてリンのパートに入れてある。
「たそやかぐら」が何を指し、どういう字を書くのか分からない。ご存じの方がいたらぜひ教えていただきたい。
もしかしたら私の聞き違い/覚え違いで講談師は単に「黄昏」と言ったのかもしれない。


「馬上の~」という言い回しは井筒俊彦だ。
性格には井筒俊彦の書で読んだ訳ではなく、中沢新一「虎山に入る」にて井筒先生が書簡の中でよく使っていたフレーズに「馬上の若武者」「跳躍」「真一文」があると拝読したため記憶の隅に引っかかっていたものが作詞という瞑想に近い作業中にふと浮かび上がってきた。

もう一つ、「釈迦ず知らず」は青森南部民謡「南部じょんがら節」より「唄の文句は釈迦ず知らぬ これが南部のじょんがら節よ」から来ている。
「釈迦ず知らぬ」も検索しても何も出てこないがおそらく「神や仏も知らない」くらいの意味ではないだろうか。



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物語はひたすら今生で得たご縁をお返しする話だが、おそらく作詞した時期に読んでいた「留魂録」と「鬼滅の刃」が大分影響しているように1か月ほど経った今聞き返してみると端々に感じられる。

特に影響を受けていると今思えるのは炭治郎の言う「透き通る世界」のくだり。
あれはXゾーンというか、楽器の演奏や作詞中、瞑想の中でたまに入ることができる異様に時間が遅く感じられる状態のアレのことではないだろうか。
楽器演奏者なら一度はずっと演奏していると自分が今何をしているのか分からなくなり、手だけが勝手に動いて楽器が勝手に鳴っている状態を経験したことがあると思う。
何かに憑依されたように現実的な思考と身体の動きが切り離されることがある。
または瞑想中に一瞬視界が真っ暗になることがある。

「鬼滅の刃」ではあれを指して「透き通る世界」と呼んだのかもしれない。


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また私は作詞する際に韻と同時に漢字を絵として見て考えるが、今回もその傾向が如実に「鬼滅の刃」の影響として表れていると今自分で聞き直して感じるのが「不死」「天命」「時代を受け継ぐ」あたりだ。
「不死」は風柱かもしれないし、「天命」は音柱かもしれないし、「時代を受け継ぐ」は「鬼滅の刃」という作品の根底にある概念であると共に炎柱かもしれない。

一応言っておくがこの曲は別に鬼滅の刃イメージソングでもファンアートでもない。
鬼滅とは関係ない。
私の古い日本の原風景の世界観に最も影響を与えていると自ら思う漫画作品は永遠に「NARUTO」で、今後も「NARUTO」以上に自分の血肉になる作品はないが今回の「古調天涯」のインスピレーションの中の一つに「NARUTO」に加えて「鬼滅の刃」があることは間違いない。

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