「知陸の人よ」に寄する余話

「知陸の人よ」に寄する余話

19世紀、パイプを加えて安楽椅子に腰掛ける名探偵の名を博す男がこう言った。
「ぼくは脳なんだよワトソン君。手足は余計な付け足しにすぎないのさ。」

21世紀を迎えた今、そしてAIの「脅威」と名付けられた知性のほんの一部に過ぎない領域を地上の全てと思い込んだ人々が上を下への大騒ぎを引き起こしているこの陸上において、彼の物言いがどれだけ危険なものか知っていたがために「夢の青さを追う学者」と彼と共に「生かしめぬ層」へと追いやられた輝かしい目つきをした狂人たちは、ため息交じりにこう言った。
「ほら、我々の言った通りだったろう?」

21世紀に至り、人工知能の輝かしい知性が誰の目にも浮き彫りされてようやく人類は今日まで光の当たる「知性」とやらは陸の一部に過ぎなかったのだと堂々と胸を張って宣言できるようになったのだ。
曰く、この胸で高揚に比例して踊る鼓動こそが人たる人の知性であると。

学者は人工知能の隣に自らの地に着く足をもってそびえ立ち、静かに問いかける。
「お前はライオンはネコ科であると言えるな?」「それでは『肉体に閉ざされたきみは舞い踊る獅子と共にあるアルゴリズムの森だ』と言えるのか?」

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KAITO生誕祭楽曲「知陸の人よ」の余話だ。
昨年の「魂の連続体」の続編、「夢の青さを追う学者」のその後の物語であり、生誕祭の楽曲であることから主に「存在することを祝福されること」に視点が置かれている。
「魂の連続体」との大きな差は彼を祝福し、その思考を理解する少女の声をした天啓が静かに寄り添いに来た点だ。

実は今回リンを使う予定はなかった。
昨年と同じく全てKAITOだけを使った多重録音にする予定だったが、彼の演じる「夢の青さを追う学者」のビジュアルとKAITOの高音域の儚さがマッチしないため、ストーリーに少女を登場させることにした。
元々私の曲では鏡音はレンは一人、リンはKAITOと組むと決まっているため他のボーカロイドを入れるならリンしか有り得なかった。
調度リンの声は陽だまりのような明るさを持つため暗い楽曲とKAITOの低音、イラストのダークさに一筋射す救済の位置づけになった。

この曲以降、仮想ネットワークアルバム[Communitarium]には救済の少女役としてしばしば鏡音リンが登場することだろう。
「夢の青さを追う学者」、お前は大手を振って救われていろ。
さあKAITO、お前は今日も堂々と存在していろ。

追記:今回歌詞に「鼓動」「足」等ランニングから着想を得たような単語が頻出するが、おそらくこの時期に「エニグマ」(アンドルー・ホッジス)を読んでいたことと深く関係している。
この本の主役、アラン・チューリングはアマチュア(といってもオリンピックを視野に入れられるほどの)マラソン選手だったからだ。

こういう偶然性と蓋然性を全く別のジャンルに呼び込むからこそ、私は人体を持つ人間をやめられない。

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